「主任、印鑑がありません!」

 アカシア病院物語PART1『院内トラブル・スケッチ402005年版』より
著者:楡一郎
 
最近、終業時間が近づくと胃のあたりがチクチク痛む。原因はわかっている。終業30分前に、例の3人娘(浅田、菊池、工藤)を相手に始める〝基本医事講座〟のせいである。とにかく彼女たちときた日には――いや、いまさら愚痴は言うまい。この講座を(無謀にも)提案したのは僕なのだ。ともかく今日も始めよう。本日のテーマは「印鑑」である。

  

ACT 1

楡「日本はハンコ社会と言われるぐらいに頻繁に印鑑が使用されています。医療機関においても同様で、例えば入院手続きの際の誓約書、退院時の保証金返還手続き、診療費未払い時の誓約書、手術の承諾書などで印鑑が必要とされます。――なお、この印鑑を押すという行為、すなわち押印には〝本人の最終意思確定の証拠〟という意味があるので、本来は実印が望ましいのですが、現実には三文判やシャチハタ印でも通用しているというのが実態です」
と、ここで言葉を切る。
メモをとる時間を配慮してだが、彼女たちにそんな気はさらさらない。
楡「キミたち、たまにはメモをとってみてはどうかね?」
と、言うと、
浅田「私、耳で聞いて覚える主義なんです」
菊池「私もです。メモをとると、それで安心しちゃって、かえって覚えないんです」
工藤「そうなんです。メモをとらず、耳だけで真剣勝負したほうがよく覚えるんです」
と、なかなかどうして言ってくれる。
楡「なるほどね、では、その真剣勝負とやらの成果をみせてもらおうか――浅田くん、病院で印鑑が必要な書類は?」
浅田「エートォ…」
楡「菊池くん」
菊池「エットォ…」
楡「工藤くん」
工藤「ンートォ…」

 

ACT 2

楡「氏名の記し方には署名と記名の2通りがあります。署名とは自筆のサイン、記名とはワープロや代筆などによるものを指します。その効力についてですが、『署名のみ』は効力はあるが、やや弱い。『署名と書き判』は署名よりもやや強く、『署名と拇印』はさらに強い。『署名と押印』はもっとも効力があり、押印のなかでも実印がいちばん確実です。また『記名のみ』はほとんど効力はなく、『記名と押印』は『署名のみ』と同等の効力があります」
3人、懸命にメモをとっている。言葉を切り、彼女らが顔をあげるのを待つが、なかなか顔をあげない。はてしなくメモは続く。
楡「浅田くん、メモに消しゴムはよしなさい――菊池くん、辞書は後でひきなさい――工藤くん、定規でどうしようというんだ?――浅田くん、修正液もよしなさい――菊池くん、色鉛筆はいらんだろう?――工藤くん、なぜコンパスが必要なんだね?――浅田くん、ツバで消すのもよしなさい」

  

ACT 3

時間も残り少ないので、とりあえず今日のところはメモを免除することにした。
浅田「メモをとるのって、やっぱり私の性に合わないみたーい」
菊池「私もそう。メモってなんとなくイジマシイって感じなのよね」
工藤「その点、楡主任なんて、きっとメモ魔ですよね!」
浅田「メモの達人!」
菊池「免許皆伝メモ五段!」
などと、ほざくことほざくこと。
 
a2 
気を取り直し、ともかく講義を再開。
楡「医療機関では、入院手続きの際の誓約書などで、原則として〝署名押印〟をお願いしています。ここで問題なのは、第三者による〝記名押印〟の場合です。例えば同一人が患者欄・保証人欄の両方を記入し、それぞれの印鑑で押印しているケースがよくありますが、はたしてこの〝記名押印〟は無効なのか? 結論からいえば、本人が第三者に指示したものとみなすことができれば有効となります。しかし、後日、本人は承諾した覚えはないなどと主張された場合には困難を極めますから、できるだけ、本人同席のうえ署名押印していただくよう対応すべきですね。――また、患者欄と保証人欄で押印が同じ印鑑の場合がありますが、これは誓約書そのものの信憑性が疑われる結果にもなりかねないので、別々の印鑑で押印するよう指示すべきです。――どうですか、ここまではわかりますか?」
三人(声を揃え)「ハーイ!」
楡「本当にわかりましたか?」
三人(ややトーンダウンして)「ハーイ」
面白そうなので、もう1回。
楡「本当に本当ですか?」
三人(消え入るような声で)「は…い」
このくらいで勘弁してやるか…。
楡「そのほかに印鑑について注意すべきなのは外国人のケースです。彼らには押印の習慣はなく、印鑑を持ち合わせていることは滅多にありません。そこで調べてみると、なんと明治32年の法律第50号『外国人の署名捺印及無資力証明に関する法律』において、外国人の場合は捺印は不要、署名だけでいいと規定しているのです――どうですか、ここまでで何か質問はありますか?」
浅田「あのォ、主任…」
楡「なんだね、浅田くん」
浅田「主任の講義聞いて、私思ったんですけど、契約や約束事というものは、やっぱり曖昧にしておいてはいけないんですね?」
楡「うむ、そのとおりだね」
浅田「とすると主任、確かこのあいだ、みんなに夕食ご馳走してくれるって約束しましたよね?」
楡「――そ、そうだったかな?」
浅田「その約束もやっぱり文書にしたほうがいいと思うんです、私」
というわけで、紙とペンを渡され、約束の文書を書かされる。署名をして渡すと、
浅田「主任、印鑑がありません」
……。
A5判/1,500円+税
『院内トラブル・スケッチ402005年版』の詳細はこちらから

最終更新日:2018年09月11日

カテゴリ:【医療事務】アカシア病院物語PART1~3

バックナンバー

■【医療事務】アカシア病院物語PART1~3